豊田 直香 さん

制作をやってなかったら
すごく頭でっかちな批評になってたと思う


    1999年度卒
    京都国立近代美術館 学芸課研究補佐員
    学習支援担当
     

     
     
     
     
     
    仕事は山ほどある
     
     
     
     

     
     

    --- 今は、どんなお仕事を?

    京都国立近代美術館という所の学芸課で研究補佐員として学習支援担当として働いています。学習支援とは具体的にはどんなことをするのですか?何でもやりますね。

    --- 何でもやる?

    普通、美術館とかでは教育普及と呼ばれているようなことに似ているんですけれども学習支援というのは、来館者の方が美術館に来て何かを自主的にやるということを応援するという役割なので、あとはその外に向けた窓口になることが仕事なので、言ってみれば展覧会それ自体も教育普及、学習支援の一環というふうにうちの館では考えています。なので企画展の時は展示をサポートしたり、ずっと付き添っていたり何か手伝いがあればするというような感じ、とにかく張り付いていることも仕事であと、コレクションギャラリーという収蔵品を展示するところでは、写真の展示なんかも自分で企画してやるようにしています。あとは、学校に行って中学生や小学生の前でレクチャーをしたり、館に来た小学生の前で作品について説明をしたり。あとは、そうですね、今、美術館では写真を集めているんですけども、それの応募してもらうようなことを窓口になったりとか講演会とか、レクチャーとか館で開かれるパフォーマンスとかにもできるだけ出て館の人間として窓口になったりすることが多いです。なので、あらゆることをしますね。

    --- 豊田さんは女子美の洋画出身ということですが、なぜ女子美を選ばれたんでしょう?

    女子美は、あのう、うちの祖母がもう亡くなったんですけど通っていた学校で祖母のころは、まだ女子美術学校という名前だったんですけれど当時としては、まだ珍しい芸術の道、絵の道へ進む事を親が認めてくれて。というのは女の子三姉妹で末っ子だったんですね、で、もう末っ子だから好きな事をやりなさいということで。でも、まあ奈良に住んでいたところを東京に出てきたんですね、で、寮生活をおくっていて、その頃は菊坂という所に女子美術学校があって。そうですね、その時代が一番楽しかったって言ってましたね。そのあと、帰ってきて結婚したんですけど戦争があったりで旦那さんが早くに亡くなってしまったんです。そのあと、自分で生計を経てるために貝殻の裏に絵付けしたり、木彫りのお雛様に絵付けをしたりして、ずっとその仕事を一生やって生計を経てていたんですね。それを、その子供ながらに田舎に帰ったりするとそれを仕事しているおばあちゃんを見ていたので、絵っていいなぁと思ったんです。ちなみに何科だったんですか?洋画です。油絵を描いていたんです。仕事としては日本画の絵の具を使って、金箔とか日本画の岩彩とかを使っていたんだけど油絵も描いていました。

    --- すごーい!すごいですよね。で、豊田さんの女子美での生活はどうでした?大学生活は?

    私は女子美を出た後に、しばらくして多摩美の大学院に行ったんだけど、芸術学なので「勉強」の方で行ったんですけど、そこにいっても2年間ということと「勉強」ということで、どうしても私は女子美の人なんだなというのを改めて痛感しました。だからすごく濃い時間だったし、回りに居る人たちも特徴的な人たちで。本当に自分は女子美っ子なんだなぁと思いますね。

    --- どんな所で?

    やっぱり、若かったし。うーんと何だろう?すごく周りの人には最初のころ付き合いにくいといわれたんですけど、最近は丸くなったらしいんですけど、昔はあらゆる事に問題意識を持って、わざと反感をかうようなこととか、喧嘩を売るようなことを本人はそのつもりは一応、ありつつも、ないんですけど「そういう場合はどうなの?」というような質問をするんだけれども、それが私がそう考えてる、思っていると思われてしまって喧嘩みたいになっちゃったり。でもわざと問題をふっかけてその場の均衡みたいな見せ掛けのものを壊そうというような野心が溢れていた時代、それが女子美だったんですね。そういう意味では、すごく自分も学生だからすごく時間もあったし余裕もあったし。そういうところではすごく逼迫した毎日を送っていたような。それにやることも面白かったです。だからやるにしてもパフォーマンスをしてみたりとか。色々、問題を起こしたかった、まぁ、密やかなものですけどね。そういう意味ではなくてはならない時だったし、あそこを通過した、というか女子美を通過するかしないかで私の人生は大きく変わったと思います。

    --- 純粋だったということ?

    純粋だったですね。

    --- 若かったというのもあり、周りの環境もあり?

    ん、というか高校までは本当に部活少女だったんです。

    --- 何部?

    剣道部。高校の3年間は。もう部活オンリーの毎日で夏休みも冬休みのお正月もなくて土日もなくていつも練習練習、練習試合と試合と、っていうかんじで。最後の方はいかにして休むかしか考えてなかったような子で。で、受験をして大学に入ってその後女子美なので、何だろう?何も考えてなかったですね、結局、高校の時は。でも大学に入った時に、私が入った大学が文学部だったんですけど、そこでは結構問題意識をかなり持っていて。でも出るときは友達が誰も居なくって。

    --- そこからなんで美大に行こうと?

    絵はずっと好きだったんです。描くのが。小学校の時に絵画教室に行っていて、近くの。小学校3,4年生の時に。すごく水彩が好きで。高校に行って油絵を描いて。美術部には入らなかったんだけど高校出る時に「美術の方に行かないの?」と言われたんだけど、英語が好きだったので英文科に行って。でもそこでも美術部に入っていて油絵をかいていて。でも、ちゃんと勉強したいなと思ったんですよ。それで1年弱予備校に通ってその後、女子美に入学しました。

    --- それは、大好きな絵というよりは表現手段としての絵、美術ってことで?

    最初は、ただ描くのが大好きで。

    --- 深い意味というのはなく、描くことに専念したいと。入学してみて思い出深い出来事なんてあります?

    いっぱいありすぎて分かんない、、、。個人としては、そういうすごく多感な時期でもあったというのもあり、人間不信に陥ったりとか。絶望っていうのをそこで初めて知ったかな。

    --- その経験はどうでしょう?今になって。それがプラスになったのか。

    ただ、そういう状況というのは自分も、もしかしたら誰かに対してしてるかもしれないな、という恐れは感じるようになりましたね。あとは、女子美っていうある種、特別な環境の所で絵を描くこととか制作することに夢中な子達が多いじゃないですか。今は分からないけれど、私たちの時代はとりあえずそうで。そのためなら何でも厭わないというか、何もかも捨ててもいい、というような。芸術至上主義みたいなものがまだあった時で。そのためならば友達もいらないとか普通の生活ができなくてもいいというような。まだ学生だったということもあって、皆が自分の世界を狭く見ていたところがあって。そういう中で、芸術が一番大切だっていうふうに思うことはもっともなんだけどその代わり失うものもすごく多いし。自分はそういう人間にはなりたくないなと思ったんだけれど、でも、そうやって守らなければならないくらい芸術とか美術とかって何か弱いものというか。それだけの力もあるし守ってゆかなければならないなら全てを捨てなきゃいけないという厳しい面もあるんだなと。それを通じて後で感じるようになりましたけど。

    --- やっぱりそれは、美大っていう特殊な環境、女子美っていう空間だから?

    そうですね。周りの人もすごく変わってたし。はっきりいって女子美以外の印象が薄いのは、みんな真面目なんですよ。すごい真面目なの、大人しいし。それは勉強の学科だからとかデザイン科だからとかではなく油絵の子も、そんなに汚くないし。きれい目なんですよ。で、考えてることも真面目。作品は結構よかったりするんだけど、人自体がはじけてないっていうか。女子美はその代わりすごくはじけてて社会生活が普通に送れない人もいたし。そういうところから、まあ、一回社会にも出たんだけれど他の美大に入ったら「なんて真面目な人たちなの!」と。面白みにかけますね。女子美はすごいですよ。

    --- 洋画で学生生活を送る中で、洋画でつかんだものとかあります?油絵科だったからこんな感じだったのかな、みたいな。友達に対してとか制作に対してとかもそうだろうけど。洋画でよかったかな、みたいな。

    汚れることが気にならなくなったとか?シルバーホワイトとかで毒が溜まったかもしれませんね。そんな手でご飯とか食べてましたから。あ、あとやっぱり油絵が基本だと思っていますね。

    --- それはなぜです?油絵が基本というのは?

    何にも応用ができるということ、それと現代の美術をやりたいと思ったら洋画、という印象があって。でも、今、途中から写真とかインスタレーションとかに制作は移ってゆくんだけど、見るのはタブロー、絵が一番好きだっていうのは、ひとつ認められた媒体、キャンバスというものの中で、それらの要素をとりあえず抜きにして、その上で何が表現できるかということを追求できるという点で自分の問題意識をすごくそこに集中することができる。内容の方へも。だからそのインスタレーションだったら例えば空間をどういう風に使うとかパフォーマンスだったらこうしてとか、細部をそろえた上で初めて美術、芸術みたいなものとして受け止められる、というところがあるけれど、絵はキャンバスに描いているという時点で安直だけれども、その上での表現ということでそれ自体が絵画の媒体、絵の媒体としてあるので、内容に入って行きやすい、集中できるという点でズルイし、いいなと思うんですよ。見るほうも、そこに集中できる。神経を散らさなくてよいということ。やっぱり平面なので、日本人は好きなんですよ。

    --- 昔から屏風とかね。

    平面人間なので。三次元のものが考えられない。そういう面では絵が好きだし平面状で何かを表現するということは三次元とか空間を表現することが絵の本質だとは私は思っていないんですね、平面自体に意味があると思っているので、そこにあらわせられる平面性だとかも絵画のひとつの魅力だと思うので、そこが一番好きなんだと思います、今は。やってる最中はわからなかったけど。

    --- 作り手から文章、文字の方へ移っていったきっかけは何ですか?

    前から勉強する事は好きで文学部にいたし、卒論も書いたし本を読むことも好きだし。最大のきっかけは、決断したのは、働いているときに休みをとってドイツに行ったんですよ。友達がドイツのギャラリーで個展をする事になって、手伝いと記録という名目で行ったんです。そのギャラリーを当時、二人で村田さんというハーフの方と河村さんっていう、出身は女子美で多摩美の芸学大学院をでたという人がギャラリーをしていて。その河村さんに会って経歴ということとかも考えて、今、こんなベルリンで活躍してるんだ、今、フリーのキュレーターで、ベルリン東京展とかもやって。そういう活躍している人を目の当たりにして、こういう道もあるんだというか。多摩美は前から知ってたけど、その河村さんが行ってたということで私も行きたいというのが強くなって。それで仕事辞めて大学院に入りなおしたんですよ。もとから文章を書くのが好きだったっていうのもあるんだけどベルリンに行ったことと友達の宿題とかを添削したりするのが、すごく楽しかったので。そういう宿題を出してもらうこと自体もすごくうらやましかったし。あと、働いている時に、写真の東中野でのゼミみたいなものに通っていて飯沢耕太郎さんが講師だったんだけれども、そこで、その写真の、撮った写真自体よりも作家とか写真自体について書いた文章の方が評価されたんですね。なのでそっちの方が見込みがあるのかもしれないと思い、文章を書くことがすごく楽しかったので何か視覚的に見たものに対して言葉で、というのはすごく制限されているんだけど、その困難な「視覚的なものを文字にかえる」という作業は自分にとって楽しいし、やっていく甲斐があるものかもしれないと思いました。

    --- もと制作をしていた側から批評する立場になって、何かメリットのようなものはありますか?

    これが、どのように表現されているのかとか、やり方が大まかにわかる。

    --- 手法っていうこと?

    うん、手法。それから、作家がどういうことを感じているか、どういう思いなのか、例えば制作に行き詰まっているとか、停滞期なのかな、とか躍進してるなとか、自分の少ない制作の経験だけれども内面の葛藤みたいなものとかも、今、こうなのかもしれないとか推測できるのと、制作に対する真摯さとか真剣さとか、そういうものっていうのを話さなくてもわかる。自分がいい加減だったのに対して作家、その作家について書きたいと思ったらプロ意識でやっててとか、自分と違うという点で、すごくよくわかる。制作をやってなかったらすごく頭でっかちな批評になってたと思うし、その辺はすごいプラスですね。どういうふうに作っているか分かるだけでもあれなんだけど、まず作家と話してみてその人がどういう人かっていうところから入る事が多いので。もと作家であるということがその後の交友関係とかにもつながってるし、作家の友達が未だに多いというのもすごくメリットですね。その後、彼らがすごくいい作品を作ったときとかに違う関り方だけれども、関ることができる、文章の場合。未だに制作をしていたとしたら、それから美術館の職員でもなかったとしたら、制作者同士って友達だけどライバルでもあって。それぞれ自分の道をいくじゃないですか。作家でも他人の批評ができる人もいるけれども、それはまれで、自分の道を行くのが精一杯、それでいいと思うし。でも、その間を繋いだりとか、その人を客観的にとらえたりするという立場で関ることができるのは、友達が続いているというか、作家のことも見てゆけるし、関ってゆけるという点で自分にとってはいい位置なのかなと思いますね。制作を辞めてしまったらもう終わり、環境も違うし友達でもなくなるということではなくて違う関り方で繋がってゆけるならばそれがすごくいいかな、と。

    --- 大学院時代、インターンなどを経て、就職して世間と関ることがすごく増えていると思うんだけど、難しさみたいなのはあります?

    難しいこともあるけれど、私が多分ギャラリーとかに勤めたことがないということもあるかもしれないですが、公共のものじゃないですか、美術館って国立なんだけれど。そうすると館の人間としての私というのを出していかなければならないので、大筋ではそこを外れないことが条件なんですね。だから館を中傷したりとかは絶対できないし、そういう立場から例えば館のことだけじゃなくても今、国立館にいるってことで自分の個人としての活動を外でやりたいというときに、それはやっていいのか悪いのか、例えばこのインタビュー自体も許可を取らなければいけないかも、とかそういう制限がほぼ無いと思うんだけど一応、気にしなければならないということが、大きな所かな。

    --- 美術を通していろんな人と関れる、みたいなことは?

    それは、すごく好きなのでそういう点ではすごく向いているなと思うけれども。

    --- 作家という立場ではなく、プロデュースして見てもらうという立場だからですか?

    はい、だからすごく責任は感じますね。個人的な責任とかそういう問題ではないんだけど展示をすることって作品を並べることだけどテーマとか決めなくても成り立ってしまうものなんですよ、ただ並べれば。並んだ順に見る人が来館者の人が見るっていうことだけでも、すでに作為が働いてるんですね。そういう点でも客観的なものとか中立的なものとかニュートラルなものっていうのは一切存在しないんだっていう立場に今はなってますね。どんなものでも、誰かの、例えば学芸員の研究員の作為っていうのが絶対どっかに働いていて、いかにニュートラルにしようと思っても出てしまうっていう点で、見る人を操作してしまうということに対して、すごく敏感になったというか。だからこそ自分がちゃんと、仕事だからやるとかじゃなくて、自分の正しいと思う方向をちゃんと持っていないと、いかようにでも間違った事をしてしまう。前の仕事は、職場を離れるともうどうでもいいって感じで自由に生活してたんだけど、今は仕事をしていないときもどうなんだろう?っていうふうに。今、自分は道を誤ってないかとか、このやり方でいいんだろうかという問いかけをいつもしているような感じですね。

    --- 経験豊富な豊田さんからコメントを。

    私は回り道をしていろんな学校を出たりとか色々な学部を渡り歩いて京都まできましたが、制作をしていた時期もあり、勉強として美術をやっていた時期もあって、そういうものが結果として今に活かされてると思うんですね。美術館に入って最初の仕事は桜の時期だったので桜色のスタンプを来館者の方々のチケットに押すという仕事だったのですが桜色のスタンプがない、と。で、その色を作るということから任されて、というか自分から申し出て。アクリル絵の具であまり乾かないようにするメディウムを入れてそこに、白をほとんどと淡いピンクを入れて、あとパールのメディウムを入れて綺麗に光る淡い絵の具を作りました。こういたことは、そういうことに慣れていないと制作を通していないとすぐやれっていってもできない。そういうものは感覚的なもので体が覚えていて、すごくささいな仕事だけれども、それは制作していたからできたことかなと思うし、ものをつくるという点で色々な気持ちとか、やりたいこととか「わかる!」っていう感じとか、そういう感覚があるので、どんなに寄り道だな、まわり道だなと思っても、とりあえず今、自分がやりたいと思うことに夢中になって友達いなくてもいいから、みたいな。とにかく目の前のことに夢中になることが大切だと思います。仕事とか絵が売れるかとか、それで食っていけるかとか、これが仕事になるのかとかは後からついてくるものだから、今は自分の置かれている状況にベストを尽くすことかな、と思いますね。それが結果として役に立たないことってないと思うから制作、作品自体に出てこなくても、それを作っているときとか取り組んでいるときの気持ちっていうのは、その後のどんな仕事でも活きてくると思うし、制作をやっているときってすごく深い所まで気持ちがいくんですよね、そういう経験ってなかなか社会に出ちゃうとできないので大学時代に掴んでおくべきかな、と思いますね。

    --- 逆に女子美の、ここはこうしたほうがいい、みたいな所は?

    女子美の子、躍進してるので、すごい個性が豊かなんで。ただ、美大生一般の状況としてよく聞くのは「どうやれば売れますか?」とか「どうやれば食べていけますか?」とか。制作ってもともとそういうものじゃなくてもっと純粋なもののはずじゃないですか。そこから始まっちゃうと、結局、どこにもいけない。

    --- 理論としては真逆だもんね。

    そうなの。でもそれは女子美生だけじゃなくて今の美術を志す若者の間違っている所だと思います。昔はそうじゃなかった、自分が生きてゆくために制作というものが必要で、もっと逼迫したものがあったけど売れるため、食うためにやってるわけじゃないし今、売れている人たちも大半がそんな事は考えないでやっていた人たちだと思うんですよ。だからそこから入るのは間違い。そんな考えは今すぐ捨てたほうがいいですよね。すごくスタイリッシュなものとか綺麗なものとか目が行きがちじゃないですか、美術って。でも、そんなものではないし、もっと厳しいし。相当な覚悟がないと作家なんて志せないし、それを見てきてるから。足を洗えとは私は言えないけれども本当に学生のこと考えている人ならば今すぐやめて他の分野の大学に行けって言うかも。私はそれでも続けてちゃんと成功している人も見ている。ただ、そういう人たちはそんな大学時代はおくってないよと。もっと真摯に芸術って何だろう、とか絵を描くことってなんだろう、作品作るってどういうことだろうってすごい真剣に考えてきて今に至っている人たちが出てきているからそういう努力は報われると思うんですよね。茨の道は続きますよ。落ち着くことってないと思うんですよね、このままいったら、多分。

    京都国立近代美術館にて
    聞き手:高橋唐子
    2007年8月25日


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