タイトル「障害理解とアートフィールド参画支援の取組」

講演会 田部井月四の世界


担当者名
小川正明(短大部長、絵画・教授)、小川幸治(絵画・教員)

活動日時
11月9日(月)16:30~18:20

参加者について
題名(テーマ)・企画協力:田部井月四(ゲスト)

主催
女子美術大学短期大学部 教育GP

取組担当
小川正明
企画・準備・記録:小川幸治
協力(ポスター制作,画暦プリント、録音記録):専攻科 高橋美友紀

インタビュー
絵画専攻科2年 荒木幸子      
会場設営(ポスター張り):絵画2年生卒業制作09日本画選択学生

作品運搬
小木周一(オージーワン)
参加者30数名 短期大学部2年生 卒業生 画家・デザイナー 大学教員・職員 絵画科講師

活動の目的
「お茶・デ・トーク会『障害と絵画』」という講演と展示会を行った。
ゲストである田部井月四先生は「絵画によって導かれた障害をもってからの人生」をテーマとして
ホストである小川幸治先生は「東京にこだわり描きつづけ記録画30年」をテーマにトークを行い、学生を含め様々な参加者と障害と絵画についての理解を深める。

活動の場所
女子美大学短期大学部一号館第一会議室

活動内容
(対談)
小川正明 短期大学部部長:女子美術大学短期大学部では、文部科学省の特色ある大学教育に対する補助金を受け、2年間にわたり「障害理解とアートフィールド参画」をテーマに学生、教職員が美術を通して障害について理解するための取り組みをはじめます。
22年度からは、さらに「共通プログラム」や「サービス・ラーニング」として新しい科目を開設します。
今日は、日本画家の小川幸治先生の提案で、日本画家であり途中で病気により障害をもった、田部井月四先生をお迎えし「障害と絵画」をテーマに対談をお願いしました。
荒木幸子:女子美の学生に「障害のある画家と その美術活動をとうして 交流することで理解してもらう第一歩として 障害を乗り越え 今尚、創作にはげまれている田部井月四さんをお招きしました。
まず 本学で日本画を指導されている小川幸治先生を紹介します
小川幸治(日本画家):東京画の運動を続けてきました これが障害のある方々にも 参加してもらえないかと考えました。
福祉や障害の知識の無い私は はたとこまりはてました 
そこで古くからの友人で 共に自主的研究会を作ってきた日本画家仲間 田部井月四さんに相談しました  きょうは サポートしていただくため 田部井さんをお招きしました。
田部井月四(日本画家):多摩美大卒業後  公募展を続けてきました。
15歳の時 父を亡くしなので兄に学費を出してもらっていました。
経済的理由で 大学院には行かず会社に勤めました。
創画展の会友となり、会社つとめでの二つ仕事を両立させ安定した生活でした。2000年に脳腫瘍がみつかり、脳の中に白い大きな塊を見た時「もうだめかもしれない。」と直感しました 。
2001年摘出手術を受けました。しかし手術の後遺症で意識を取り戻したのは1週間後でしたし記憶もおぼろげでした。運動機能と顔面麻痺で働けるようになるまで 一年半かかり 復帰しても 障害をもつ身として 徐々に直りながらの再出発をしました。
荒木幸子:現在の状態はいかがですか
田部井月四:現在は相当よくなり三半規管の障害が残って歩行など少し不安定で時々バランスを崩すことがあり転倒もあるが歩行も杖は要らない。
右側顔面は麻痺が続き口・喉・目・耳は動いていない、しかし顔は1回・眼が2回手術(形成手術)やリハビリなどでかなり改善している。見た目ではわからないほどになっいる。
脳腫瘍は現在3センチほどを抱え続けている。しかし会社をやめ画家として生きている現在は大きくならず安定しています。
小川幸治:2002年、杖をつきながらの歩行が、以前より早くなったころ、田部井さんをモデルに顔をスケッチさせてもらったことがある、すこしよくなった顔で 快く引き受けてくれた。その顔は 「ひとりピカソ」みたいだった。むしろ彼は強くなったなと思った。 
自画像が描ける絵描きになったなあと思った、今では電話口での言葉もはっきりして よくなったのがわかる。
荒木幸子:障害をもって 絵をやめたいと 思ったことはありますか
田部井月四:それはなかった。やらざるをえない。絵を描くことが生きることだとしか思えなかった
そして以前は 画面を黒くしてから絵をかいていた。今は明るい光を感じる画面にしたい、と黒くするのを辞めました。
以前は有名になりたいとか 誉められたいとか お金がほしいとかが絵を描く理由でした。
しかし今はそう思わない生命の発生する根源の光を求める為に必然として明るい絵になった。障害を乗り越えたかどうか解らないが『障害をもったからこそ 絵を描く気持ちになった。」家族も歩くことが間々ならないのに集中した作品が描けて「『この人は絵を描く人なんだ』と思った」と言ってくれた
荒木幸子:「不自由」は感じていましたか
田部井月四:手術半年後の制作は立ち上がれないし体が動かない不自由はあった。赤ちゃんのようにつかまり立ちをして、ふらふらでほかの事はできないのに絵を描いた。
その頃は障害と戦っていた。だから会社に出られたとき障害に勝ったと思った
克服しなくてはと思い障害と戦った。だが会社は認めてくれない。苦しかった。
小川幸治:田部井さんは 障がい者手帳を習得されなかったのですよね
田部井月四:元のように 直ると思っていて前と同じになりたいと願っていた。それは何事もなかったように働きたいということであり障害は「悪」と言う考え方でした。ある時、腫瘍を発見してくれた医者に「田部井さん、もう白旗揚げなさいよ障害を持ってどう生きるかが大切です」と言われた。大分時間がかかったが障害を受け入れる気持ちになった。
不自由をどう受け入れるかは難しいが、「受け入れると心はどんどんと自由になってゆく」のです。
小川幸治:私が若い頃に 千葉県の八幡学園に行ったときのこと 裸の大将で知られる山下清がいたところで 彼は高校生ぐらい優秀だったようで、知的障害の少年が歪んだ顔で私を覗き込むようにあいさつしてくれたが私も応えようとしたが私の顔も引きつっていたのがわかった。素直にあいさつが返せず自分自身が素直になれなかった
田部井月四:笑えない。笑うとは 顔が引きつることで コミュニケーションができない
子どもが「おとうさん、直して欲しい。もっとやさしい顔だった。」
自分は男だし、もうもてたいとも思わないからこれで(歪んだままの顔で)いいと思っていたが、子どもの言葉で手術に踏み切った。顔は自分のものと思っていた。しかし「顔は(微笑みは)他の人が見るのものなのだ」と気付いた。
顔って(絵の)画面も(そうであるように)他人に伝える為に存在すると思った。
食べられなくても 話をしたい、出会いの価値には変えられない。
人と出合って にっこりするとうれしい 「おはよう」と言った瞬間 それだけでいい。
こころがぐっと出た思いがする。
小川幸治:「おはよう」の朝の挨拶も 先に言った自分の気持ちはいいが 相手が返してくれれば
もっと清清しい。伝わらなかったり 返事がかえらなかったら 不安になりますね。
「おはよう」から一日がはじまり 挨拶から ひととのつながり 結びつきが生まれ 人生がひらけることもあるでしょう。
挨拶やこころの交換は大切ですね。
荒木幸子:障害をのりこえて大きく変ったことはありますか
田部井月四:「障害をもってからこそものの見え方が変わって見えてきた」ことのひとつは「立体感」。片目で見ているのに立体と感じられて見えるのは過去の両目で見ていたときの記憶と合成して見える疑似立体。写真なども片目なのに経験や記憶などと合成してで立体にみえる。そして3回の左目の手術の後、本当の立体が見えたとき、それは超立体的に見えて感動した。それはよりマチエールなどの凹凸が生々しい現実味を帯びました。
障害と一緒に生きてから、人間的に生きる根拠が生まれた。より旺盛に生きる意欲が湧いてきた。描くことにより人生の歓びが開かれた。生活の中に絵を描くことが必然になってきた。
小川幸治:東京を絵で記録しようと言う美術運動をしているのですが
実は 田部井さんが衝撃的に出合った一本の松ノ木を 私も描いているんですよ。この本「東京スケッチ漫遊記」(小川幸治著 日貿出版社)に載っている江戸川区小岩の「影向の松」。関東一大きな松で 枝の下に入ると暗くなるほど枝葉が茂り 根も枝も広く張っている。
田部井月四:「生命を描きたい」と思っていて最も生命の躍動を感じるのが樹木だった。 以前 亡くなった兄が住んでいたアパートのそばにある江戸川の縁にある、善養寺の松の巨木を見に描きに行きました。
春の光が枝にまとわりつくように輝き木影に「光と影」を強く感じました。幹は古くて黒く、シルエットのようにえぐられて見えるのですが、すばらしい力感のリアル立体でした,葉の緑は、上からの光が透けて見えてステンドグラスのように美しくひかり身体に力をあたえてくれるな」と感じました
それまでは人間など動くものにしか興味はありませんでしたが、「植物」―止まっているものの中に生命を感じ 止まっているのに 動いているような力感があることに気付きました。「植物」に生命そのものを感じるとともに その土地に流れているものに生命を感じることができました
小川幸治:いまここに「江戸名所図会」という文化、文政、天保の江戸を記録した本。復刻本がありますが、その挿絵を長谷川雪旦という絵師が 広範囲に歩き描いた 貴重な記録があります。1800年代に古木と言われていた木を 現代のわれわれも描くことが出来ます。
北斎、広重もこの木を見詰めたのかな などと 想いを馳せながら 同じ古木をスケッチをしていると 時空を越えた風(コミュニティ)を感じます。この風景を前にした、多くの人々の力(パワー)を思います。
絵を描ける楽しさと 絵の持つ記録性という力にも魅力を感じます。絵には社会性がある みんなの想いが籠もるんだなと感じた
田部井月四:絵は(見てくれる)人に育てられどんどん成長する気がします。
荒木幸子:私たちはなにができるのか 不安でいていいのかと思っていますが 
田部井月四:不安でいい、不安があれば何か出来る。あせらなくてもいい。不安は想像力だが妄想にもなる。
会社を辞めるとき本当に暮らせていけるのかと思った時、怖くなった。「俺が稼がなくちゃ」と言うことが当たり前と考えた。家族は「わたしたちが何とかするから また会社で苦労して再び(お父さんが)腫瘍が大きくなっては困るからがんばらないでいい」と言われた。頑張って働かないと駄目だと思っていたのは自分だけだった。
男とはこうゆうものと縛っていたのは自分の思い込みだと気がついた。
小川幸治:「不安は未来から吹く風 その風にのってはばたけば 未来につながる」と言う詩があった。これを自分にいいきかせている。
先日テレビで「視覚障害の高校生弁論大会」が放映されていた。見ることが出来ないというハンデをもつ高校生の多くが、絶望のどん底でも「誰か」との出会いがあって、不安がなくなり、道が開けたと語っていた。私も学校の先生をしているのに「その誰か」になれたのかと自問自答している。今回は私には未知で不案内の『障害』の問題も、友人である田部井さんの存在があるから この場にいられるのだ。彼に頼んだ。
自分よりすぐれた人の力を借りよう、その存在を認め、託すそう。
生まれながらのハンデのある女子高校生の話で 「お父さんとお母さんの顔が見たいですかの質問をよくされますが、見たいとは思わない、お父さんとお母さんは 私の心の中にいる。見てみたいのは朝日と夕日』と語っていた。
他人じゃ、どうにも力になれないこともある。やはり本人自身の考え方が一番の力だ。
田部井月四:小川幸治さんのやっていることが以前はわからなかった。小川さんがやろうとしているのは人間の関係(新しいジャンルとしてのコミュニケーションアートと私は思う)をやりたいんだなと感じた。何の欲も無いその絵の中で起こっていることは絶対的なこと(生きている証がある)
生きることがコミュニケーションに重要な要素。コミュニケーションは生きることに重要な要素。今回の「障害と絵画」でも小川幸治さんと一緒に、新しい絵画の地平を模索できることを何より幸せです。出会いは楽しい。出会いが大事。絵を通しての人間の関係は ゆるぎないものだ。
荒木幸子:障害をもって変ったことはありますか
田部井月四:今を生きないと二度と訪れない出会いを無為に過ごしてしまう。再び逢えないかもしれない「障害ということがあって(絵や生き方が)変わるチャンスと考えた。新しい人生を 歩むことが出来る。
「今(この一瞬)を積み重ねることにより、未来を築くことになる。」
今の自分は、描くことは私に喜びを与えてくれるものであり、絵を描くことの必然を深く感じるようになりました。過去を思い、未来を夢見て生きることではなく、今を描くことで今を生きる。そして今を積み重ねて未来を生き、その蓄積こそが豊かな人生になるのだと信じられるようになって来ました。
荒木幸子:電車の中などで 障害のある人に出会うと 助けてあげなくっちゃと思い
自分には何が出来るかと考えるのですが。
田部井月四:そんなに複雑ではない もっと単純でいいんじゃないかな
小川 幸治:女子美の学生さんたちが自分を見つめる事をする時に時、自分自身が分からない、何を描いていいか分からないと家に引きこもってしまうケースがあるが何かアドバイスがありますか?
田部井月四:私は、左顔面麻痺の為筋肉が死んでしまい左唇を巻き込む為怖くておにぎりが食べられなかった、ちぎって口に入れて食べていた。しかし左の頬に筋肉を移植手術してからは、怖れもなくおにぎりをかじることができた時に 「これが幸せの感覚だ」と感じた。今ここにいて普通に出来ることが 幸せなんだなと思った。(絵を描くことの楽しさや、普通に生きられることの幸せを学生さん達にどうしたら感じていただけるのかと思う。これは社会の問題でもあるのかもしれない。)
荒木幸子:これからはどんな絵を描きたいのですか
田部井月四:絵を描く生活をしたい 自分の絵を沢山沢山描きたい。
絵を描く喜びを伝えたい。そして広めたい。絵画がいかに社会に必要かを伝えたい。
小川幸治:「風神雷神図」など、むかしのひとが描いたテーマをあえて現代人として、挑戦したい。今を記録することが 今をいきていること。「東京鳥瞰図」や「庶民信仰」を
描いている。江戸時代の日本橋を描いた「熈代勝覧」の平成版を 来年中に仕上げたい。
私もやりたいことが沢山ある。
荒木幸子:障害が解らないまでも やってゆくこと 理解してゆくことは大切なんだなと思いました
ちょうど時間にもなりましたが、質問などありますか。
絵画二年生:理解するには どうすればよいのでしょう
田部井月四:理解すると言うことは 他人の話をよく聞くこと
こうじゃないかああじゃないかと思いをめぐらしてもそれは全て自分の思い込みに過ぎない。素直に聞くこと現実を見つめることが1番解りやすい。
小川正明:今日は画家として「絵画によって導かれた、障害を持ってからの人生」について語っていただいた田部井月四先生、「東京にこだわり、描き続けた30年」の小川幸治先生の対談をお届けしました。
この対談で、短大GPの「障害理解」のプログラムがスタートしました。
お二人の先生と、司会者の荒木さんに感謝申し上げます。
「障害理解とアートフィールド参画支援の取組」は障害教育ではなく、障害のある人と同じフィールドで美術を通して心の交流を図るものです。

成果、反省点:

荒井幸子(絵画専攻科 司会者)
絵の説明をもっと聞けばよかった。
小川正明先生
素晴らしい対談だった。
田部井先生からは、障害をもつ前とその後の新作について、自身の言葉でもう少し聞きたかった気もします。
田部井月四先生
思っていたことは大分話せた気がしますが、もっと若い方々の気持ちを聞いたり一緒に考えたりすれば良かった。
自分たちの深まりと共に他の先生方も理解していただけることを信じてこれからも進んでいきましょう。
小川幸治
「パラアート」と「誰がために描くのか」「マチエールとは」の話まで行かなかった。大学として何ができるかを 年内に話合わなくてはならないのでは。 東京画はまず 東京をスケッチして東京を知りたいと思う学生をあつめる必要がある。私自身は勉強の機会を得たおもいがある。