19世紀はリトグラフの時代といわれました。
リトグラフ芸術の発展は、初期において商業的な目的によってなされ、実際にはドイツ人とフランスの職人の共同研究によってフランスで栄えました。芸術的な性格をもった最初の版画が1800年、イギリスで現れ、1810年以後新しい手法は自立性を獲得し、巨匠のデッサンの複製手段として利用されました。色彩石版も研究され、クロモ石版(悪い意味の言葉。点描で色をつける方法)なども作られました。色彩版画はグラッシによって、後にロートレックがポスターの中に見事に適応して驚異的な革新をとげました。
当時最も偉大な版画家の1人であったゴヤもリトグラフを試みています。1819年よりマドリッドで制作を始め20点もの石版画を作り、1825年に『ボルドーの闘牛』と題する4枚のシリーズを作りました。ロマン主義画家たちもリトグラフの熱烈な信奉者でした。ドラクロワやジェリコなどで、すでにリトクレヨンだけでなく筆によるリトやスクラッチを併用しています。
リトグラフはその後、イメージが主要な役割を演じるようになった新聞雑誌の発展に結びつき、政治に対する強力な武器となりました。ドーミエのリトグラフは、ゴヤ以来の力強い構図をもち、全く自由にしかも明確に描きだしています。
19世紀中期、リトグラフが商業的手段でしかなくなったときオディロン・ルドンがまったく独自な手法を駆使して制作しました。
19世紀末、リトグラフ芸術はそれまでほとんど利用されなかった色彩版画によって飛躍的な発展を遂げました。
日本におけるリトグラフの始まりは1860年のことで、プロシャ使節が幕府に石版機械一式を贈り、ドレスデン生まれの画家ハイネが随員として同行しました。石版石に将軍家の葵の紋章を描いて引き渡した為、公式文書に『御紋押型』(紋の印刷機)として書き残されています。しかし、そのプレス機を動かせる日本人がいなかった為に、新型機械が動き出すのは遅く明治に入ってからのことになります。
1800年代半ばになるとフランスでそれまで印刷や絵画の複製に用いられていた版画の芸術性を見直す運動がおこり、多くの版画家が生まれました。
色彩印刷の発展 ー 色彩印刷と版画
1801年、トーマス・ヤングによる赤・緑・青(青紫)の色光を感じ取る神経の存在が唱えられます。
その60年後にジェームス・マクスウェルの赤・緑・青の光による色再現の実験がおこなわれ、これによってニュートンやヤングの説が正しかったことが証明されました。
1700年代初頭、ニュートンの色彩理論を念頭において色の再現を考えたのがジャック・クリストフ・ル・ブロンでした。1732年に3原色を銅版のメゾチント版で刷り重ね成功をみています。
更に、ジャック・フェビアン・ゴーティエ・ダゴティが墨版を加え精度を高めています。
1825年にミュンヘンのフランツ・ヴァイ・スハゥプトはリトグラフによる3原色(赤・黄・青)の重ね刷りでまずまずの成果を得ています。
1837年、ゴドフロア・エンゲルマンが3原色に墨版を加えた4色刷りによる色彩印刷の方法を完成しリトカラー印刷の特許を得ました。
これらの説や実験に立脚し、1868年にルイ・オーロンが色インキの重なりによる減色混合による色再現の方法を研究し、現在のカラー印刷の基礎となっています。
写真の発明
また、1826年、ニセフォール・ニエプスが写真の概論を発表します。ニエプスの死後、彼と共同研究をしていたルイ・ジャック・マンデ・ダゲールがその実験を引き継ぎ、1839年に新たな方法をダゲレオタイプとして銀板写真を発表しました。同年、ムンゴ・ポントン(イギリス)はゼラチンやアラビアゴムなどの物質が、重クロム酸カリウム等により感光性を持ち、光にあたると硬化して温水にも溶けなくなることを発見しています。
この1839年のダゲレオタイプ発表が写真の始まりの年とされています。
1856年「ラ・ルミエール」誌にネグレとジロー(フランス)の二人で網点分解の原理を発表、一方実践的な実験はフォックス・タルボットによりなされています。
1882年、網凸版印刷製法の研究をしていたマイセンバッハが「網点分解」の特許を取得します。その後1896年にアメリカのレビー兄弟が網目スクリーンの制作に成功してから実用化にこぎつけました。
|